ちゃおちゃお的美術講座


「聖書」って
 キリスト教の聖書には「旧約聖書」と「新約聖書」二つがあります。旧約聖書はユダヤ人と神の契約すなわち古い契約を記した書で、新約聖書はその契約を全人類に広げるために遣わされたイエス・キリストと人類の新しい契約に関する書です。(当然ユダヤ教には旧約も新約もないので、彼らは旧約聖書にあたる書にだけに唯一「聖書」という名を冠しています。)
 教義からみると、別に旧約聖書なんか無視してもよかったのではとも思うのですが、そこは新興宗教の悲しさ。自分達の正統性を主張するためにやはり旧約の部分が必要だったのでしょうね。現在の新興宗教のあり方とよく似ていますよね。「俺達のほうが正統だぜ」ってね。
 とにかく旧約聖書は「創世からイエス・キリストにいたる人類の書」という位置づけになっています。

 さて新約聖書ですが、本編部分はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの書があります。最も古いのはマルコ書ですが、これには受胎告知や三博士等の著述は全くありません。いきなりイエスのガラリヤでの伝導から話が始まります。聖書にマルコ書しかなかったら、クリスマスは無いのでさぞ寂しかったでしょうね。
 マタイ書では三博士がちゃんと出てきます。この手の伝説が最もよく仕込まれているのは、より後代に書かれたルカ書です。話はヨハネの誕生にまで及んでおり、イエスとヨハネは胎児同士で感応しあったりします。なんかどの書も伝説をちょっとずつ変えてあるみたいで、ぴったりは一致しません。お互いにオリジナリティーでも競いあっていたのかも知れません。そのため、各書に描かれたイエスの人物像もそれぞれに異なった印象を受けます。

 この4つの聖書はそれぞれの時代の色々な思惑が絡んで書かれていたようで、全部の書でペテロや教会をイエスの後継者と認めているわけでもなさそうです。面白いことに、最も古いマルコ書はイエスの神格化に関する描写が最も少なく、時代が新しくなるに連れ、キリストの神格化と教会の正統性を裏付けるように書かれているのだそうです。(ざっと読んだだけでは判らなかったなあ。)この辺をつつくと色々ありそうなのですが、あまりに話が膨大になりそうなのでやめます。

 さて、中世において庶民は聖書を読むことは許されていませんでした。神様との直接交渉はすべて教会の独占的事業となっていました。(もっとも許されてもラテン語の聖書を理解できたかどうか) 庶民は教会で聞く説教や教会の壁に描かれたフレスコ画から聖書の内容を教えられたのです。この手の教会のとても良い見本がサン・ジミニアーノのドゥオモです。この教会はロマネスク様式ですが、内部にびっしり聖書の各場面が愚直と言っても良いくらいわかり易く描かれています。
 この絵を観て人々は恐れたり、心打たれたりしたのかとちゃおちゃおも心打たれました。芸術とはちょっと違うフレスコ画の世界をはじめて見たように思います。あれはどう見ても子供の教科書です。

 庶民はこのように断片的にしかイエス・キリストの生涯や教えを知ることしかできませんでした。こういうのってありがたみがいやでも増しますよね。映画だって、前宣伝でちょっとずつ見せられると(どんなくだらないものでも)すごく面白そうに感じますものね。 

 もっと色々書きたいけどきりがないのでこれくらいにします。

 

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