ちゃおちゃお的美術講座


「最後の審判」(ここで全てが終わる)
 マタイ書によるとこの世の最後に神による審判が下されるとイエスは言っています。それによると「全ての人間が集められ、天国に行ける人間は神の右側に集められ永遠の命を授かり、地獄行きの人は左側によせられ永遠に罰を受けることになる。」のだそうです。
 この言葉に関心をかきたてられずにいられるでしょうか。後世の人々はこの言葉をめぐって、実にあれこれと思いをめぐらせました。「どうしたら天国に行けるのだろうか」と。その結果このモチーフを巡って膨大な絵画が描かれたのです。 
 最後の審判という概念は別にキリスト教の専売特許ではないのですが、これらの美術品のおかげで、ちゃおちゃおのような異教徒でも承知する事柄となりました。

 さて、天国です。行ったことがないのでよくわかりませんが、すばらしい所のようです。そこにいる人達もすばらしい。なんせ各時代の殉教者、聖人、偉人が神の周りに集まり、口々に賛美しているらしいのです。普通の人が行っても身の置き場がないかもしれない。普段着で高級レストランに入ってしまったような気まずさを感じそうです。
 ここにいる人達は実は霊魂ではありません。ちゃんと人間の「肉」を持って天国にいるのです。肉体に対するキリスト教のこだわりは、こういうところにも見ることができます。システィーナ礼拝堂の「最後の審判」をご覧になった方も多いと思いますが、あそこに描かれていた人々はすでに死者であるにもかかわらず、実に血色良く肉体も丸々していたことに気づかれたでしょうか。また子供や老人がいなかったことにも気づかれたでしょうか。
 「最後の審判」を受けるために死者は肉体とともに墓から復活してきます。しかも、イエスが没したのと同じ30歳で蘇ってくるのです。全員30歳!これは結構すごい世界ですよね。自分も自分の子も自分の親も同い年で未来永劫暮らすのですから。 

 絵として圧倒的に多いのはむしろ地獄の描写です。この文章を書きながら思ったのですが、ちゃおちゃおも天国の暮しを描いた絵を、あまりたくさん見たこともないように思います。その代わり地獄の絵は随分見ました。これはほとんどSM趣味の世界と言っても良いような物が多かったです。なにせ地獄では生きながら皮をむかれたり、焼かれたり、サタンに食べられたりしなければならないのです。(本当はサタンも神から罰せられてこの地獄に落ちているはずなのですが、なんでそんな好き勝手に振舞えるのか、どこにも説明がありません。)
 中世には、このような絵を信者に見せて脅しつけていたのでしょう。東洋でも地獄の様子を描いた仏教画がポピュラーですが、人々がこれほど地獄の方に興味を持つのは面白いことだと思います。菊池寛の小説にも「極楽」にいった夫婦があまりにも刺激のない毎日に飽き飽きして、「地獄にいったら、今よりも退屈しなかったかも知れない」などと思いをめぐらせる、というのがありますが、案外そういうものなのかもしれませんね。

 ちゃおちゃおはそんなに偉大なこともしていないけど、別に悪事も働いていません。こんな私でも「得点」が足りないと、希代の極悪人たちと一緒に地獄でとんでもない責め苦を受けなければならないのでしょうか?

 

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