フィレンツェ人物伝


フラ・アンジェリコ

 「天使のような画僧」という意味のフラ・アンジェリコ。またの呼び名も「神に祝福された者」という意味のベアート・アンジェリコである。
 実際にフラ・アンジェリコはその名の通り「天使の画家」と言っても過言ではない。ルネッサンスの天使と言えば今日私たちがまず思い浮かべるのは、フラ・アンジェリコの描くあの甘美できらびやかな天使なのである。

 フラ・アンジェリコ、本名グイド・ディ・ピエトロは1400年頃、フィレンツェ北方の丘陵地帯の農民の子として生まれた。その修業時代はほとんどわかっていないが、修道僧になる以前にすでに独立した画家として活躍していたことが伝えられている。

 20歳前後でフィエーゾレのサン・ドメニコ修道院に入る。この修道院はドメニコ教団内の改革派の拠点であり、後にフィレンツェ大司教となるフラ・アントニーノの指導のもと、急速にフィレンツェ宗教界の主流となった。
 フラ・アントニーノの信頼が篤かったフラ・アンジェリコは、やがてサン・ドメニコ修道院の院長代理や院長、そして修道院がフィレンツェのサン・マルコ修道院に進出した後はサン・マルコ修道院の監査役などに任じられ、修道院行政の中心人物ともなり、聖俗を超えた名声を博すことになる。

 サン・ドメニコ修道院に入ったフラ・アンジェリコは、基本的な修行のかたわら、伝統的な画僧の仕事である写本彩飾の仕事に携わっていた。その後サン・ピエトロ・マルティレ女子修道院のための三連祭壇画をはじめ、あちらこちらの教会や修道院の祭壇画を描くようになる。
 明確に秩序づけられた画面構成や奥行きの表現など、マサッチョの遺産を受け継ぎながらも、ロレンツォ・モナコなどに代表される国際ゴシック様式の趣味をも取り入れ、青、赤、金の美しく輝く華麗な宗教画がその特徴である。

 今日フラ・アンジェリコの作品群を見るのなら、何と言ってもフィレンツェのサン・マルコ修道院をたずねるべきであろう。
 旧巡礼者用食堂に展示されているきらびやかな祭壇画ももちろんすばらしい。しかし、1437年から始まったサン・マルコ修道院の大規模な再建計画の一部として行われた、フラ・アンジェリコによって修道院に描かれた壁画も見逃すわけにはいかない。
 修道院の二階へと上がる踊り場から見上げる位置にあるのは、有名な「受胎告知」である。そしてその二階は修道僧たちの僧坊になっている。
 粗末なベッドと読書用の机しかない狭い僧坊の壁には、「我に触れるな」「キリストの変容」「愚弄されるキリスト」など、フラ・アンジェリコ直筆の壁画がある。
 これらは修道僧の祈りと瞑想のための純粋な僧院絵画であるため、構図は著しく簡素化され、一切の装飾的要素が削り落とされて、色彩も抑制されている。しかし、かえって敬虔な画僧フラ・アンジェリコの本領が発揮されていると言えよう。

  教皇エウゲニウス4世の招きでローマに招かれ、現存していないが旧サン・ピエトロ大聖堂の壁画制作に携わったり、オルヴィエートの大聖堂の礼拝堂の天井画を手がけたりもしている。
 一度フィレンツェに帰還し、フィエーゾレのサン・ドメニコ修道会の院長を務めた後、再びローマに赴き、1455年、ローマのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ修道院で亡くなった。同聖堂に埋葬されている。

 ヴァザーリによると、フラ・アンジェリコは人間としても聖者のように清純で、素朴、人間味にあふれていたそうである。絵筆を取る前には必ずお祈りをし、キリストの磔刑図を描くときには涙が頬をぬらさないことはなかったらしい。
 教皇エウゲニウス4世はこのようなフラ・アンジェリコの評判を聞き、ちょうど空位になっていたフィレンツェ大司教の座を彼に与えようとした。しかしフラ・アンジェリコは自分にはふさわしくないとして固辞し、同じドメニコ会のフラ・アントニーノに大司教の地位を与えるように教皇に懇願した。このため、フラ・アントニーノはフィレンツェ大司教に任命されたのである。
 ヴァザーリはフラ・アンジェリコの善良さは比類のないものだ、と絶賛しているが、このエピソードはよくあるヴァザーリの作り話ではない。
 16世紀初頭にアントニーノの列聖の審議が行われた時、6人がこの事実を確認しているからである。
 カトリック教会の信仰心の堕落や風俗の乱れが指摘されてすでに久しかったこの頃に、フラ・アンジェリコはまさに天使そのもののような清らかな生活を送っていたのである。

 

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