フィレンツェ人物伝


ブルネッレスキ
 
 15世紀がちょうど明け初めた1401年、フィレンツェの街は大がかりな美術コンクールの話題でわきかえっていた。羅紗製造の同業組合がスポンサーになって、フィレンツェ大聖堂サンタ・マリア・デル・フィオーレの西側にある、サン・ジョヴァンニ洗礼堂第2門扉の制作を誰に依頼するかを決めるためのコンクールである。

 課題には旧約聖書の「イサクの犠牲」が選ばれた。これはアブラハムが神の命令に従って自分の息子イサクを犠牲にささげようとする。その時、アブラハムの信仰に感じた神が天使を遣わしてイサクを救う、という劇的な主題である。
 参加者はこれをブロンズの浮き彫りに仕上げて提出する。制作期間は1年間と定められ、その間の制作費と生活費が保証され、優勝者には門扉全体の制作が依頼されることになった。
 競技には、シエナの彫刻家ヤコポ・デッラ・クエルチャ、フィレンツェの金銀細工師ロレンツォ・ギベルティとフィリッポ・ブルネッレスキなど、当時トスカーナ地方で名を知られていた7人の芸術家が参加した。
 その審査員は実質的にはフィレンツェの市民自身だった。15世紀のフィレンツェでは、芸術作品への豊かな関心や鑑識眼が市民としての重要な素質とされ、旺盛な批判精神、実力主義のものの考え方が深く浸透していたのである。

 審査の結果、最後まで勝負を争ったのはギベルティとブルネッレスキの作品であった。どちらも優劣つけがたい出来ばえだが、繊細かつ工芸的でいまだ中世ゴシック芸術の雰囲気を伝えるギベルティと激しくドラマティックでより「近代的な」ブルネッレスキ、といった作風の違いは明らかであった。
 一般には、ブルネッレスキがギベルティに「敗れた」と言われることが多いが、それは正確ではない。当初、門扉はこの二人の平等な共同作業とすることが決められた。ギベルティはこの決定を受け入れたがブルネッレスキは共作を辞退したため、結局ギベルティ一人に制作が委ねられることになったのである。二人の作風の違いから考えると、ブルネッレスキの辞退は当然と言えよう。
 この二人の作品は、国立バルジェッロ美術館に600年後の現在も二つ並べて展示されている。

 もしこのコンクールでブルネッレスキが単独で優勝していたら、あるいは彼は生涯彫刻家として活躍していたかもしれない。しかし、このコンクールでの彼の(落選ではなく)優勝返上があったからこそ、建築家としてのブルネッレスキが誕生するのである。

 もともと金銀細工師であったブルネッレスキだが、コンクールの後、親友のドナテッロと一緒にローマへ旅に出かけ、古代の彫刻と遺跡を研究し、建築家を志すようになったと言われている。このエピソードの確証はないが、のちにフィレンツェを舞台として実現される建築家としての彼の作風は、古代都市ローマとの出会いなくしては語れないことは確かである。

 ところで、当時のフィレンツェの建築界における最も重要な問題は、大聖堂サンタ・マリア・デル・フィオーレの造営事業であった。13世紀の末にアルノルフォ・デル・カンビオによって始められた大がかりな大聖堂新築計画は、15世紀には最後の仕上げを待つばかりになっていた。その最後の仕上げというのが、全体の建築プランの中でも最も困難なクーポラの造営であった。
 それは、十字架形の大聖堂の縦と横の腕の交わる部分の正方形の上に円形の丸天井を載せるという、とてもやっかいな課題であった。

 1418年、フィレンツェ大聖堂の造営委員会によって大ドームの建設方法を競うコンクールが公示される。さまざまな案の中からブルネッレスキの案だけが唯一実現可能なものであった。
 しかし、ここでまた17年前の宿命の対決が再現されることになった。建築の専門的知識のあまりなかった造営委員会は、当時フィレンツェ芸術界において最も名高いギベルティを、ブルネッレスキと同じ資格で造営責任者に任命したのである。ギベルティは彫刻や金工制作においては確かに当代並ぶ者のない名手であったが、こと建築に関してはシロウトも同然であった。
 紆余曲折を経たのち、ギベルティは実質的に建設工事から手を引き、ようやくブルネッレスキが一人で現場の総指揮を任せられることになった。

 直径42メートルにも及ぶ巨大な空間を、正方形から円形に移行しながら完全に覆うという難しい課題を、ふたつのお椀をすっぽり重ねたような二重構造とすることによってブルネッレスキは見事に克服し、1436年に大ドームは完成する。
 そしてこの偉業によって、建築家としてのブルネッレスキの名声は不動のものとなったのである。

 この大ドームの建設の他に、捨て子保育院やサン・ロレンツォ教会、サント・スピリト教会、サンタ・クローチェ教会のパッツィ家礼拝堂など、ブルネッレスキの数多くの革新的な作品をフィレンツェで見ることができる。
 完全な円形アーチを細い円柱で受け止め、アーチの直径と円柱の高さを同じにするなど、いずれも建物全体を明快な数学的規則に還元し、各部分の形態や大きさ、比例関係などを、単純で基本的なものに統一しているところがその特徴である。これらの諸要素は古代建築から学んだ形式を取り入れながらも、ルネッサンスのみの持つ新しい力強さがみなぎっている。

 1401年の第1のコンクールは、若き彫刻家ブルネッレスキを建築家に変え、1418年の第2のコンクールは初期ルネッサンス最大の偉業達成への道を彼に開いた。これらの2回のコンクールが、ブルネッレスキの人生のまさにターニング・ポイントとなったのである。

 今も大聖堂の脇からブルネッレスキの像がドォーモを誇らしげに見上げている。大聖堂の地下にはブルネッレスキの墓がある。そして大聖堂から徒歩2分の所には、このルネッサンスの偉人の名を冠した四つ星のホテルがあるのであった。

 

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