フィレンツェ人物伝


コジモ・ディ・メディチ 「祖国の父」

 コジモは15世紀フィレンツェ最大の商人であり、ある意味で「最良の統治者」であった。

 都市国家フィレンツェは毛織物業を中心とした産業で大いに繁栄し、政治的、経済的に完全なる独立を手にしていた。フィレンツェの政治は体面は民主主義という形をとっていたが、実は極めて少数の大商人の完全な寡占状態で、共和国ローマの最後の状況とよく似ていた。すなわち民衆は権利を求め、すでに権利を得ていたものはそれを抑圧しようとあの手、この手を尽くすのである。フィレンツェは党派争いの渦の中にあった。
 そんな状況のもと、当時はまだ新興の商家であったメディチ家を継いだのがコジモである。彼の父ジョバンニは上流商人たちへの課税政策で民衆に人気を博しており、コジモもその路線を引き継いでいたので、(実際は大金持ちなのだが)民衆派とみなされていた。彼はそこのところをとてもよく理解していた。政治への野心は剥き出しにせず、ちょっとした要職に就いただけであり、せっせと家業の銀行業に精を出していた。ライバルの策略で10年の追放刑を宣告されても黙ってそれに従った。(すぐに撤回され、戻ってきたけど。)

 こういう人間が人気が出ないわけがなく、メディチへの信望は高まるばかりである。彼はフィレンツェの民主制はとっくに死に絶えたことはよく知っていがそれを廃止しようとは決してせず、形骸を利用して巧みに政治を行っていたのである。
 この辺りはとてもシーザーに似ているとちゃおちゃおは思うのである。どちらも民衆にとても人気があったし、表立っては従来の政治体制の擁護者として振舞っていた。しかもどちらも民主制に引導をわたしたのである。またどちらも残酷なことは好まなかったし、敵は赦した。彼らが悪人だったとは思えない。そうすることが必要な時代であったのではないか。
 軍人で短命だったシーザーと違うのはコジモは根っからの経済人だったことである。彼は教皇庁や皇帝にまで出資しており、それにより強大な発言力をもち、意のままに動かすことができた。彼が仕掛けるのは経済的な攻撃であり、何かあるとすぐ傭兵達を繰り出すお馬鹿な君主達とは一線もニ線も画していた。そのためかどうか、彼はとても長生きできた。
 
 コジモを語る上で欠かせないのが芸術擁護である。彼は実に多くの芸術家のパトロンとなっている。 フィレンツェ・ルネサンスというと孫の「ロレンツォ豪華王」の名がよく上がるが、ロレンツォは実際には芸術にはあまり熱心ではなかったそうである。コジモのおかげでメディチ家に「芸術家のパトロン」というイメージが定着していたので彼も芸術家のパトロンであったように錯覚されている。
 コジモが援助した建築家、芸術家、文人には、ドナテッロ、ギベルティ、ボッティチェッリ、ベノッツォ・ゴッツォリ、フィリッポ・リッピ、フラ・アンジェリコなど枚挙に暇がない。実際、当時のフィレンツェの有名な芸術家でコジモに接しなかったものはいなかったのであろう。

 彼の保護とその長命のおかげで、フィレンツェは当時としては実に長い間の安定と繁栄を謳歌できた。これがフィレンツェが特筆すべき芸術都市になり得た大きな要素であった。
 そして、数百年を経てなおフィレンツェはその恩恵に浴しており、こんな極東の小さなホームページにもその恩恵は届いているのであった。感謝です。

 

「フィレンツェ人物伝」インデックス