フィレンツェ人物伝


ダンテ

 1265年、グエルフ(教皇派)とギベリン(皇帝派)同士の内輪もめに揺れるフィレンツェに生まれた。
フィレンツェの団体市内観光に参加すると、必ずダンテの家と称する古い家の前で「これがダンテの家です。でも本当は違うんです」という意味不明の説明を受ける。(彼の家は取り壊されてしまって現存しない。)聞いている方も99%が心の中で「ダンテって何だっけ」と思っているであろう。この人は名前は有名だが、功績は日本人にはあまりポピュラーではないのである。彼は詩人である。

 ダンテの幼少期はあまり知られていないが、有名なエピソードがある。彼が9歳のとき、ベアトリーチェという裕福な家庭の娘に一目ボレしてしまい、生涯を通して愛を捧げる事をきめる。ただ、この点に関しては本当に愛していたというより、当時の詩人の習慣に従って心のマドンナが必要であったという説もある。実際、ダンテとベアトリ-チェの間の具体的な交流はないに等しい。

 とにかくダンテはベアトリーチェへの愛の詩を処女作として、文壇にデビューした。当時のイタリアでは、隣国フランスの吟遊詩人の流れを汲んだ詩作が極めて盛んであり、ダンテもこれらの詩の研究に没頭したらしい。デビュー後、街でもちょっとした有名人くらいにはなっていたが、政治に首を突っ込んだあげくフィレンツェの「白派」、「黒派」の紛争において敗北し、死刑を宣告され、街を脱出。その後流浪の生活を余儀なくされる。

 この流浪の中で書いた詩「神曲」が彼の名前を不朽のものにした。この詩は彼岸の世界への旅をモチーフにしている。丹波哲郎と同じである。構成は天国、煉獄、地獄の三部に分かれ、それぞれ三十三歌の三行韻という「三尽くし」であり全部で1万5千行にもなる大作である。特に有名なのは煉獄や地獄の様子を描いた部分であり、例えば地獄の最深部では下半身氷付けになったルシファーが、3つの顔のそれぞれに、ブルータス、ネロ、カシウスを噛み砕いているのだそうである。

 内容もさる事ながらともかく「神曲」の功績はこの詩がラテン語ではなくイタリア語で書かれていたということが上げられる。当時の多くの詩はラテン語で書かれており、俗語であるイタリア語の地位は相対的に低かった。ダンテはイタリア語を文学の領域に押し上げるのに大きく貢献しているのである。ダンテを「イタリア語の父」と呼ぶ研究者もいる。

 彼は生涯自分を追放したフィレンツェを心底恨みつづけた。遺骸はラヴェンナに葬られており、そのためサンタ・クローチェ教会にあるダンテの墓(記念碑)の棺の中は空である。墓までが「ダンテの墓です。でも本当は違うんです」という状況である。

  ところで昔、ダンテとダビデを混同している人がいた。今から思うと結構すごい間違いである。

 

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