フィレンツェ人物伝


ルカ・デッラ・ロッビア

 フィレンツェの街の数多い美術館の中で、あるいは交通量の多い街中で、澄み切った天空のような背景の青に浮かび、花や果物に囲まれた白い聖母子像のテラコッタ作品をよく見かける。フィレンツェの美術を少しでも調べたことのある人なら、一目でデッラ・ロッビア一族の作品とわかるであろう。
 その開祖ともいえるルカ・デッラ・ロッビアとはどういう人物なのだろうか。

1470年にフィレンツェの商人ベネデット・デイが記した『歴史の回想』には、当時名声を博していた彫刻家たちについて以下のように書かれている。

 フィリッポ・ブルネッレスキは世界の王
 ドナテッロはブロンズと大理石の彫刻家
 ギベルティすなわちサン・ジョヴァンニの門
 ルカ・デッラ・ロッビアは偉大なマエストロ

 しかし、デイよりもさらに半世紀以前の1436年、著名な『絵画論』の序文でアルベルティは、フィレンツェの優れた芸術家として、ブルネッレスキ、ドナテッロ、ギベルティの後にルカ・デッラ・ロッビアとマザッチョの名前を挙げている。

 ルカ・デッラ・ロッビアは1399年か1400年頃、フィレンツェの富裕な羊毛業者の三男として生まれた。富裕な市民の子として、良識に富み、知的な人であったとの証言もある。ヴァザーリによると、ルカは最初、金細工師の工房で訓練を受けたという。実際、ギベルティか、ナンニ・ディ・バンコのもとで彫刻を学んだことは間違いないようだ。
 1431年にフィレンツェ大聖堂管理組合から大聖堂の聖歌隊席の発注を受けた翌年、石工・木工師組合に入会している。この制作中の大作に圧倒されたアルベルティが、前述のように『絵画論』の序文を記したのである。

 聖歌隊席と並んでルカの名声を確かなものにしたのは、彼が創始した彩釉テラコッタ芸術である。単にテラコッタに顔料をつけるだけでなく、像の縮みを計算に入れた上で粘土像を焼き上げ、マルツァコット(融解性の高い透明なガラス性の物質)で覆った後、さらに釉薬を重ねて、低い温度で再び焼き上げるという技術を開拓した。
 このような技法は、フィレンツェで当時目にすることができたマヨルカ陶器やイスパノ・モレスク陶器、アラブ・イスラム陶器などに似たようなものがあったが、、彫刻に応用し、独創的なものとして芸術性を高めたのはルカの功績である。
 大聖堂の聖具室扉の上を飾る「キリストの復活」「キリストの昇天」をはじめ、「りんごの聖母」「薔薇園の聖母」など、1440年代にたくさんの名作を作っている。

 1482年のルカの死後、甥のアンドレア(1432〜1525)が工房と技法を継承した。アンドレアの初期の作品はルカの作品と区別がつけにくいほど、叔父のもとで技法を学んだ。捨て子養育院の「幼児」のパネル、「石工の聖母」などが代表作。彼はより多彩な色彩を使用し、より複雑な絵画的構図を求めた。

 アンドレアには何人も息子たちがおり、工房を支えていたが、その中でもジョヴァンニ(1469〜1529)が最も重要である。しかし、彼の代になると、デッラ・ロッビア工房の作品はパターン化した繰り返しの様相を呈し、装飾過多で美的な初々しさを失っていってしまった。それでもサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の「洗水盤」は傑作といえる。

 ルカの作品にあふれる清新で明澄な世界、甥のアンドレアの無垢な愛情あふれる表現は、フィレンツェ芸術の独創性を代表するものといえよう。

 

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