フィレンツェ人物伝 |
ドナテッロ ドナテッロは本名をドナート・ディ・ベット・バルディといい、1386年頃、梳き毛工の息子として生まれた。父ニッコロは、1378年に起こった下層職人の「チョンピの乱」の首謀者の一人で死罪の判決を受けて一時亡命していたが、その後赦免されて帰国し、職人の仕事を続けていた。生粋のフィレンツェ職人としての父の激しい反骨精神や下層市民という出自は、ドナテッロの性格や思想形成に少なからぬ影響を与えたであろうことは、容易に想像できる。 親友のブルネッレスキが1401年のコンクール課題作品で見せた激しく力強い表現を、ドナテッロは彫刻の世界で受け継ぎ、彼の厳格な写実主義、表現主義はもはや時代様式すら超越している。15世紀初頭の彫刻革命において、独創的な個性と桁外れの才能を持つ、偉大な天才芸術家と言えよう。 しかしながら彼の激しい新しさは、やはりブルネッレスキが同時代のフィレンツェ市民たちの無理解と嫉妬に苦しんだのと同様、フィレンツェにおいて十分にその力量を評価されることはなかった。しかも、ブルネッレスキの大聖堂の大円蓋造営事業に相当するような大事業をついに与えられることもなかったのである。それは彫刻の分野ではギベルティをはじめとして多くの天才たちがひしめき合っていたことにもよる。 さて、9歳年上のブルネレッスキとドナテッロは兄弟のように強い友情で結ばれており、ブルネッレスキが1401年のコンクール優勝を「辞退」したあと、二人でローマに旅行し、古代遺跡の研究に没頭したというのは有名な話である。 若いドナテッロがサンタ・クローチェ教会のために木彫りの十字架像を作った。彼がこの自信作をブルネッレスキに見せて評価を乞うと、ブルネッレスキは「このキリストは野暮でまるで百姓のようだ。」と酷評した。 このエピソードの真偽はともかく、このような「腕くらべ」の逸話は、実力主義の当時のフィレンツェ人たちが大好きなものだった。 また、ドナテッロの才能は「祖国の父」コジモ・ディ・メディチに深く愛され、二人で彫刻や詩や哲学を論じて1日を過ごすこともあった。コジモの注文によってたくさんの仕事をし、コジモは制作費としてたっぷりと謝礼を渡したが、ドナテッロはその金を工房の天井からつり下げた籠に無造作に放り込んでいたので、誰もが使うことができた。 さらにコジモの息子ピエロにも保護され、別荘地を与えられて晩年を保証してもらった。しかしドナテッロは1年もしないうちに別荘地の管理というやっかいな仕事にすっかり参ってしまい、返却を申し出ている。そこでピエロはその別荘地から上がるのと同じくらいの金額を、毎週ドナテッロが自由に銀行から引き出せるようにしてやった。ドナテッロは大いに喜んで、幸せな晩年を送ったという。 フィレンツェ市民に正当に評価されなかったとは言え、メディチ家の庇護を受けたドナテッロは幸せである。オルサンミケーレ聖堂の外壁には「聖マルコ像」や「聖ゲオルギウス像」、大聖堂付属美術館には「エレミヤ」「ハバスク」などの預言者像や大聖堂の「聖歌壇(カントリーア)」の浮き彫り、国立バルジェッロ美術館には「少年の洗礼者ヨハネ像」そして、ちゃおちゃおがこの世で一番美しいブロンズ像と信じて疑わない「ダヴィデ像」など、80年に及ぶ長い生涯で制作された作品は、今でもフィレンツェの街のそこここで見ることができるのである。 |