フィレンツェ人物伝


フィリッポ・リッピ

 その愛称の通り、天使のように敬虔な画家だったフラ・アンジェリコと対極的な画僧がいる。
 フラ・アンジェリコと同時代人で、コジモ・ディ・メディチの寵愛をうけた画家の一人、フィリッポ・リッピである。

 1406年頃、食肉業者の息子として生まれたが、母は出産直後に亡くなり、父も2歳の時に死んだので、彼は孤児となって叔母に育てられた。しかし生活難のために自宅のすぐ近所のカルメル会のサンタ・マリア・デル・カルミネ修道院に入った。

 リッピが画家としてどのような修行を積んだのかは不明である。ヴァザーリによると読み書きの勉強が嫌いだったリッピの悪童ぶりに手を焼いた修道院長が絵の道に進むように便宜を図ったという。彼の師匠はフラ・アンジェリコと同様、同じ画僧のロレンツォ・モナコなのだろうか。それともマゾリーノともマサッチョなのだろうか。
 カルミネ聖堂では1420年代後半にマゾリーノとマサッチョの共作によって、有名なブランカッチ礼拝堂の壁画が完成している。ちょうどリッピの芸術形成期がこの時期であり、実際、彼の現存する最初の作品であるカルミネ修道院内の壁画「カルメル会の会則の認可」や「トリヴルツィオの聖母」にも叙事的・彫塑的肉付けなどマサッチョの影響がはっきりと見られる。
 (なお、マサッチョが未完成で残したブランカッチ礼拝堂の壁画は、奇しくも約50年後にフィリッポの息子、フィリッピーノによって完成される。)

 1434年にはリッピはパドヴァに招かれ、現存しないがサント・アントニオ聖堂で壁画を制作している。このことは彼が画家としてすでに有名であったことを意味している。僧侶の身分でありながら当代の人気画家として、フィレンツェの教会や有力者のため宗教主題の絵画を描き続けた。

 その人となりもフラ・アンジェリコとは対照的である。しょっちゅう仕事を中断して女遊びに行ってしまうため、作品の完成は遅れがち。怒ったパトロンのコジモが彼を建物の2階に軟禁して仕事を続けさせようとしても、梯子をかけて見事脱出してしまうという離れ業を演じたこともあった。詐欺まがいの事件を起こしたこともある。
 このような行動にも関わらずコジモは彼をかわいがり続けた。コジモに言わせれば「まれな天才というものは、天の贈り物であって、車引きのロバとは違うのだ」そうである。コジモのこの認識はリッピの人生に大きな恩恵をもたらしている。

 リッピは50歳になった時、プラートの美しい修道女ルクレツィアを見そめてしまい、絵のモデルに頼んだあげく、手に手をとって駆け落ちしてしまった。教会はこれを「誘拐」と見なしたため大騒ぎとなり、リッピは危うく逮捕されそうになる。これを救ったのもコジモであった。コジモは二人を環俗させ結婚させてやるのである。
 しかし、元々本人の意志には関わりなく単に生活難から修道院に入ったリッピなので、破戒僧と言い切ってしまうのも気の毒であろうし、実際当時ではこのような話も珍しくはなかったようだ。
 こうして家庭を持つことができたリッピとルクレツィアの息子が後にボッティチェッリの弟子となる画家、フィリッピーノ・リッピである。1469年スポレートで客死。遺骸はスポレートに葬られた。
 後にフィレンツェ市はフィレンツェ大聖堂にリッピの遺骨を葬りたいと返還を要求したが、スポレート市はフィレンツェには偉人や名士が多いのだからこのまま置かせてほしいと拒んだそうである。
 
 彼は聖母の絵を数多く描いている。しかし、その作風は同じ画僧であってもフラ・アンジェリコのような敬虔な雰囲気は全くない。芝居がかったマリアや大天使のポーズ、腕白小僧のような天使など、テーマが宗教であっても俗っぽいほど現世的で日常感覚にあふれていた。そこがまた人気の秘密でもあろう。
 ウフィッツィ美術館第8室にある「聖母戴冠」、ピッティ美術館の「聖母子」は彼の代表作である。作者の性格であろうか、どちらも明るく世俗的な画面構成である。「聖母戴冠」の方は左隅に自画像を描き込んでいる。リッピは頬杖をつきいかにもいたずらっぽく鑑賞者の方を見ているのである。

 彼はフラ・アンジェリコの同時代に人気を二分した画家であった。
 まさに「聖と俗」という二人のあまりに対照的な性格と生き様は、15世紀のフィレンツェの宗教生活の二面性を雄弁に物語っており、フィレンツェルネッサンス美術の歴史のエピソードとしていつまでも語り継がれるであろう。

 女好きの詐欺師でも一芸に秀でていれば美徳となるという典型の人。まさに芸は身をたすくである。真の女好きらしく、妖しい美少年の絵は全くない。 

 

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