フィレンツェ人物伝


ロレンツォ・ディ・メディチ

 別名「豪華王」とも呼ばれるあまりに有名な人物。商人としてのメディチ家の絶頂期を極めた。幼少期より祖父のコジモにより徹底的に帝王学をたたき込まれ、若干16歳でフィレンツェの公使としてナポリに行ったりしている。商家の跡継ぎと言うよりは若様として育てられたのである。
 
 青年期の彼の肖像として有名なのはベノッツォ・ゴッツオリの手になる「東方三博士の礼拝」(メディチ・リッカルディ宮)である。この絵は当時の有名人肖像画絵巻と言ってもよいものであるが、三博士の中のもっとも若い人物はロレンツォの肖像だそうである。絵の中でロレンツォは紅顔の美少年になっているが、これはどうもかなり歪曲されたもののようである。実際の彼はこのような美顔ではなく、色は黒く鼻もひしゃげたようであり声もかすれていたらしい。しかし一度会って話をした人間はことごとく彼の魅力の虜になってしまった。女性も例外ではなかったという。

 さて、コジモの教育の成果もあってロレンツォは成人した頃には各国の要人とすっかり顔なじみであり、やがて神聖ローマ皇帝からローマ教皇までがメディチ銀行のお得意さまになる。彼はこれにより各国の政治に強い影響力を持ち、力の均衡による平和をフィレンツェにもたらした。
 フィレンツェの内政上はかれはコジモに倣って表だった要職に就こうとはしなかった。かわりにメディチの親派がこれを独占し、実質的にフィレンツェの政治をすべて握っていた。民衆にも人気があり、サボナローラが登場するまでは、この独裁体制は揺るぐことがなかったのである。

 彼の人生の最初のピンチは1478年に起こった「パッツィ家の陰謀」である。パッツィ家は新興のメディチに不快感を抱いていたが、法王シクストゥス4世にそそのかされてロレンツォの暗殺を決意。計画はフィレンツェのドゥオモで決行された。ミサに参列中のロレンツォと弟のジュリアーノに刺客の一団が襲いかかる。ジュリアーノは死亡。ロレンツォは手傷を負いながらも新聖具室に逃げ込んで立てこもることに成功。暗殺計画はあっけなく失敗しパッツィ家の関係者70人あまりが処刑された。

 ロレンツォは持ち前の政治力で陰謀後混乱を見事に乗り切り、自分の地位を盤石とする。

 ロレンツォのもとで宮廷文化は大いに栄えた。彼が熱心に保護したのはコジモの創設したプラトンアカデミーの保護であった。当時のフィレンツェは大のプラトンばやりであり、プラトン哲学をキリスト教にいかに当てはめようというようなことを文化人達がこぞって議論していたそうである。その議論の中には若きミケランジェロの姿もあった。
 ロレンツォの時代、宮廷文化としての文学、哲学、言語などの文化はおおいに興隆した。しかし反面、ロレンツォはキリスト教美術関係の注文には無関心だったように思う。コジモほど頻繁に美術家達に作品を発注していない。

 彼は画家や彫刻家をあまり大切にしていなかったのか?もちろん援助をしていたが、それは政治の道具としてではなかったのかと思われる。 当時フィレンツェの美術家達を、各国の王はのどから手が出るほど欲しがっていたので、彼はそれを積極的に外交に利用したのである。 ダ・ヴィンチやミケランジェロなどをミラノやローマなどの他国に派遣したのは他ならぬロレンツォであった。
 その結果フィレンツェ市内にはに大物美術家はいなくなってしまった。そして結局「モナ・リザ」もウフィッツィではなくルーブルにあるのである。(涙) 
 それはともかく、彼の尽力でフィレンツェの繁栄は続き、まさにルネサンスの絶頂期を迎える。まさに「命短し、恋せよ乙女」。
 
 ロレンツォは根っからの政治家であった。この点が、骨の髄まで商人であったコジモとの大きな違いである。そのためか彼のもとでメディチ銀行の商売は傾き、やがて倒産してしまう。彼自身も健康を害し、持病の痛風が悪化して47歳の若さでこの世を去る。そしてそれを待っていたかのように、サヴォナローラがフィレンツェで台頭してくるのである。

 

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