フィレンツェ人物伝


ニッコロ・マキアヴェッリ

 後世「マキアヴェリズム」という言葉を生み出した「君主論」の著者として有名なニッコロ・マキアヴェッリは哲学者ではなく、フィレンツェ共和国政府第二書記局の局員という、いわば公務員です。

 マキアヴェッリの生まれたのは1469年5月。
 翌月の6月にはロレンツォ・ディ・メディチ(豪華王)の結婚式が盛大に行われ、さらにはその年の12月にはロレンツォの父・ピエロが亡くなったことにより、ロレンツォがメディチ家の家長となります。
 まさにロレンツォがメディチ家の当主としてスタートを切ったその年にフィレンツェの中心・シニョリーア広場まで徒歩5分ほどの中心部で生まれているのです。
 1478年、マキアヴェッリ9歳の年には「パッツィ家の陰謀」が、その後、サヴォナローラの登場、フランス王・シャルル8世のイタリア侵略など、次々に歴史的な事件が起こるのですが、それらの激動のフィレンツェの様子をすべて自分自身の目で見ています。

 しかも1498年5月28日、フィレンツェ共和国政府第二書記局局員として採用されています。これはサヴォナローラの処刑が行われたわずか5日後、彼らの火刑の後も生々しく残っているシニョリーア広場を横切っての政庁・ヴェッキオ宮への初登庁だったのです。
 そして、この後はフィレンツェ政府の命を受けて、ローマ法皇アレッサンドロ6世の息子・チェーザレ・ボルジアとの折衝や、フォルリの伯爵夫人・カテリーナ・スフォルツァとの交渉などに自身で当たっています。
 このように一フィレンツェ市民として歴史を目撃したと言うだけでなく、フィレンツェ政府の中枢に身を置いた当事者として、まさにマキアヴェッリはルネッサンス・フィレンツェの歴史の第一証人と言えましょう。

 さて、マキアヴェッリはこのようにルネッサンスのフィレンツェを語るにはどうしても欠かすわけにはいきません。ところが私ちゃおちゃおごときにはとても手に負える人物ではないことも確かです。何と言ってもあの塩野七生女史が「わが友マキアヴェッリ」という大作をものしておられるほどなのですから、ちょちょいのちょい、と「フィレンツェ人物伝」に載せるわけにもいかないのです。

 いろいろ悩んだあげく、日頃から大変お世話になっているアヤコさんにご協力を仰ぐことにしました。
 アヤコさんはマキアヴェッリに非常にご造詣が深く、こちらのサイトからも相互リンクを張っていただいている「塩野七生『わが友マキアヴェッリ』の世界」というサイトを運営されております。そちらではマキアヴェッリを中心に、1500年前後のフィレンツェの歴史を詳細な年表や多彩な図版などで紹介なさっています。
 それで、こちらの「人物伝」ではマキアヴェッリの足跡を追うのではなく、ちょっとしたエピソードという形でマキアヴェッリの側面を語っていただくことになりました。

 アヤコさんにはお忙しい中、無理なお願いをご快諾いただき、本当にありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。

 それでは、アヤコさんの特別寄稿「フィレンツェ人物伝・マキアヴェッリ」をご覧下さい。

 

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