アヤコさんの特別寄稿

フィレンツェ人物伝「マキアヴェッリ」


親愛なるビアジオ。

 明日の朝の飛脚に、十人委員会宛の報告書と一緒に君へのこの手紙も託そうと思って書いている。今朝届いた君からの手紙によると、マリエッタのヒステりーが一向に収まらないそうだね。この私自身、今回の出張がここまで長引くとは思っていなかったのだから、マリエッタとしてはヒスを起こすのも仕方ないだろう。その件については、まあ、よろしく頼むよ。私も家から長く離れて少し疲れてはいるが、夜の生活の方は寂しいというわけでもない。それについては、また帰ってからゆっくり話そう。

 ヴァレンティーノ公爵の宮廷に滞在して、もう3ヶ月目に入っている。ここチェゼーナは、毎日雪が降り続いてとても寒く、先月からひいている風邪がなかなか治りそうもない。イーモラの宮廷にいた頃は、毎日のように公爵と会見していたのだが、チェゼーナに来てからは会見を断わられることが多くなった。そんな時には、公爵の書記官アガピートと話こんだり、君が送ってくれたプルタルコスの「列伝」を読んだりして時を過ごしている。今もついさっきまで「列伝」を読みながら、ついつい過去の偉人たちと公爵のことをだぶらせて考えてしまっていた。なぜなら、過去の偉人の業績でも勉強しない限り、神出鬼没なあの公爵の行動が、予想できそうにないからだ。

 私がヴァレンティーノ公爵に初めて会ったのは、今年の6月、使節としてウルビーノに派遣された時のことだった。実に高圧的で傲慢、これが私の公爵に対する第一印象だった。「あなたがたの政府は嫌いだ。信用ができない」こんなことを正面きって言葉にしたのは、後にも先にも、このヴァレンティーノ公爵ただ一人だ。しかし、私は驚くと同時に、この自信に満ちた若く美しい公爵に、とてつもなく心惹かれたことは間違いない。なにせ、わがフィレンツェ共和国政府には、このようにはっきりと決断を下せる指導者が、ただの一人もいないのだからね。

 それから3ヶ月、再び公爵の宮廷への使節に選ばれた時は、正直言って少し嬉しかった。あの公爵に、再び会えるのだから。しかし、傭兵契約の履行を盾に、フィレンツェ共和国に同盟関係を迫っている公爵との交渉は、困難なものであることもわかっていた。私の任務ときたら、いつものごとく「言を左右にして時間をかせぐこと」である訳だし。公爵の立場も、ウルビーノで会った頃からは随分と変化していた。あの頃の公爵は、ローマ教会とフランス王という強力な後ろだてによって、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでロマーニャ・マルケ地方を制圧し、ウルビーノに無血入城した直後だった。しかし、今では公爵配下の傭兵隊長どもが反旗を翻し、公爵は一時的にしろ、ウルビーノを始めロマーニャ公国の多くを失ってしまった。まあ、小国の領主である彼らからして見れば、同じような小国を次々に食い物にしていく公爵に、不安を感じたのも当然だとは思うが。この反乱によって、公爵がボローニャ攻略を一時断念し、ボローニャのベンティヴォーリオと講和を結んだことは、前の報告書に書いた通りだ。

 しかしビアジオ、この最悪の状況にあっても、公爵は常に驚くほど冷静なのだ。一度、会見の席で公爵はこう言われたことがある。「私は自分の時が来るのを待っている」と。公爵は、いまのところ反乱者側と講和を結んだ状態にあるが、私は最終的には公爵が必ず勝利すると思っている。その根拠は、まず、反乱者側は一枚岩ではないということ、法王領の小国の領主である彼らは、結局は法王の息子である公爵には逆らえないということ、そして公爵は、時を待つことを知っている男だということだ。
そういう具合で私は公爵の勝利を確信している訳だから、勝利者となる公爵と、とっとと同盟関係を結ぶようにとシニョーリアに報告書を書き、今は公爵と会見する機会も少なく、さらには金もほとんど底をついているときてるので、一刻も早くこの任務から開放してもらえることを望んでいる。しかし、私の再三の解任要請にもかかわらず、書記局の面々や書記局長のヴィルジーリオ、果ては終身大統領のソデリーニまで、私信で仕事に励めなどと書いてよこして来るのだから、まったく嫌になるよ。

 この長い滞在での私の一番の収穫と言えば、公爵と実に色々なことを話し合えたことだ。会見と言っても、本筋から離れて四方山話になる時が、よくあるものだからね。もちろん、公爵は常にご自身の利益を考えに入れておいでだし、私もフィレンツェ共和国書記官としての立場を忘れたことはないのだが、反乱者たちに対する公爵の意見には、私も同感する点が多かった。そんな時は「私の個人的意見としては公爵に賛成です」と申し上げたものだ。公爵は決して本心を語らないお方だが、時々、ふとした会話の中に、お互い通じ合うものを感じるような気がする。公爵は今、27歳、私は33歳。年もたいして変らない。もし、時代が違えば、私たちはお互い良き理解者になれるような気がしてならないのだよ。こんなことを書くと「政庁内の反マキアヴェッリ派の連中に知られたらどうする」と、君はまた烈火のごとく怒るだろうけどね。

 十人委員会宛の報告書にも書いたが、公爵はせっかく到着したフランス重装騎兵をすべてミラノに帰還させてしまった。さらに今日、公爵の腹心の部下だったレミーロ・デ・ロルカが、公爵の命により投獄された。これについてはわたしも八方手をつくして情報収集しているのだが、公爵の真意はまったくもってわからない。しかし、近々公爵はチェゼーナを発ち、リミニかペーザロ、もしくはセニーガリアへと向かうだろう。私には、何かが起こるような気がしてならない。

1502年12月23日 チェゼーナにて
ニッコロ・マキアヴェッリ

 
 マキアヴェッリが書記局の同僚だったビアジオ・ボナコルシに宛てて書いたこの手紙は、私(アヤコ)の勝手な創作です。マキアヴェッリとチェーザレは、個人的には深いかかわり合いはなかったようです。しかし、後のマキアヴェッリの思想に大きな影響を与えることになるチェーザレとの関係について、マキアヴェッリがこんな風に思っていたとしたらいいな・・・と思って書いてみました。

 チェーザレとの出会い、それはマキアヴェッリにとって『君主論』を生む源泉となった体験でした。塩野七生著『わが友マキアヴェッリ』の中には、次のような一文があります。
 「なぜ『君主論』のモデルはロレンツォ・デ・メディチではいけなかったのか・・・『君主論』のモデルはチェーザレ・ボルジアであった。ここに『君主論』が、なぜ書かれたかを解く鍵が隠されている。そして、それさえわかれば、マキアヴェッリはわかったも同然だ」
 マキアヴェッリはなぜ、リーダーを論じた『君主論』のモデルに、祖国フィレンツェの最盛期を築いた名君、ロレンツォ・イル・マニーフィコではなく、志し半ばで倒れて行った、悪名高きチェーザレ・ボルジアを選んだのでしょう?その答えは『わが友マキアヴェッリ』を読み進めるうちに出てくるのですが、マキアヴェッリがチェーザレを選んだ理由の中にはやはり、私が創作の手紙の中で書いたような、若き日に立場は違っても心通じ合うものを感じていたから・・・ということも含まれているのではないでしょうか。

 チェーザレを主人公とした『君主論』は、キリスト教世界で永きに渡って物議をかもし出してきた書物です。しかし、マキアヴェッリの思想が祖国フィレンツェを想う気持から発していることは間違いありません。マキアヴェッリは、まだまだキリスト教中心の世界であった16世紀にあって、何よりも仕事と人間と、そして祖国を愛した、まさにルネサンス人だったのです。マキアヴェッリは、死の約2ヶ月前の1527年4月16日、親友のフランチェスコ・ヴェットーリに宛てた手紙の中に、こう書いています。

 「私はフランチェスコ・グィッチャルディーニ殿を愛します。わが魂よりもわが祖国を愛します。」

(註)マキアヴェッリについてはアヤコさんご自身のHP「塩野七生『わが友マキアヴェッリ』の世界」も是非合わせてご覧下さい。

 

「マキアヴェッリ」へ

 

「フィレンツェ人物伝」インデックス