サンタ・クローチェ教会・2
(サンタ・クローチェ教会の”革の学校”)
Ide'e Quaranteさんによる特別寄稿


 サンタ・クローチェ教会にはかつて”革の学校”がありました。
 現在、皮革工芸に携わっていらっしゃるIde'e Quaranteさんが、この”革の学校”について特別に寄稿してくださいました。フィレンツェの伝統文化・工芸の世界を理解する一助として、是非お読み下さい。
 大変興味深い事情をお伝えくださったQuaranteさんに改めて御礼申し上げます。
 
サンタ・クローチェと少年の家

  今サンタ・クローチェ教会を訪れ、中へずっと進んでいくと右手の奥のほうに観光客が自由に見物できる革細工の工房と、ちょっとした売店がある。ここは昔の修道院から技術と伝統を受け継いだ工房で、正式には“革の学校”と称している。今は観光客にとっては観光をかねてフィレンツェ名物の革製品を手軽に手に入れる所でもある。フィレンツェで有名な“革の学校”がここにできたきっかけは、第二次世界大戦後間もなくの思いもかけないある出来事からだった。

 第二次世界大戦時、イタリアはドイツ、日本と3国同盟を結び、初めはファシズム陣営の一員として、ナチスドイツとともに連合国を相手に戦っていた。戦争の末期、イタリアのムッソリーニのファシスト党政権が倒れた後は、いままでイタリアを占領していたナチスドイツ軍とイタリアの解放を目指す連合軍とが国内の至る所で激しい戦闘をくり拡げていた。その時のイタリアは日本の広島や長崎とほぼ同じくらいの人命が失われ、そのためこの戦争によるイタリアの荒廃ぶりは相当のものだった。このことはあまり日本では知られていない事実である。

 そしてその時戦後のイタリアが抱え込んだ大きな問題の一つがご他聞に洩れず大勢の戦争孤児たちのことだった。当時、駐留していたアメリカ軍がアメリカ本国での例を参考に、駐留地に持ち込んだ行政に対するひとつのアイデアがあった。それが“少年の町”であった。それは少年たちにひとつの自治区を与え、彼ら自身でそこを治めていくことにより、社会生活のルールを身につけさせるという趣旨のもので、混乱した戦後社会の中で行き場がなく、仕方なしに非行に走る孤児たちを救済し、彼等の健全な成長を助けるための場として大いにそれは一般社会から評価され、多くの悲惨な境遇の少年たちがその恩恵を蒙ったのはいうまでもない。

 その“少年の町”はイタリア国内でいくつか開設され、フィレンツェのあるトスカーナ州では地中海に面したリヴォルノ(Livorno)とピサ(Pisa)に作られた。両方の町の施設ともフランチェスコ派の神父たちが運営に力を注いでいた。(“少年の町”は戦後 ミッキー・ルーニー、スペンサー・トレーシー、ビング・クロスビーらが主演のアメリカ映画がつくられた。)

 しかし間もなく町の中でだんだん成長する子供たちを、将来現実の社会の中で、どうやって自立させるべきかが大きな問題になってきた。そこで神父たちは少年たちのために色々と考えをめぐらせた。本家筋に当たるフィレンツェのサンタ・クローチェ教会の修道院が持っている革工芸の技術を基に徒弟の学校を作り、少年たちに革職人の技術を身につけさせ、いわゆる手に職をもたせて自立させようと考えた。経営に当たったのは教会の神父たちであり、指導にあたる先生たちの募集は学校が関係筋に呼びかけた。

 これらの趣旨に賛同して集まったのは、マエストロ(師匠)と呼ばれる戦前にあのオルトラルノのボッテーガで働いていた職人たちであった。少年達が一人前の職人になるには4〜5年はかかったが結果は大成功であった。40年〜50年にかけては毎年4、50人がきまってここから巣立っていった。ついにフィレンツェのあの有名な革製品会社のグッチ(Gucci)、フェッラガモ(Ferragamo)その他の有力な会社なども、この学校の卒業生を採用してくれるようになったのである。卒業生の中には自分の力を大きく発揮して店を開き今では立派な経営者になっている人達もいるようだ。

 今ごくありきたりの革製品の店のように見えるサンタ・クローチェ寺院内の売場も、実は戦争孤児を革職人に養成する学校であったのである。このようにしてボッテーガで少しずつ成り立っていた革工芸の産業が、戦後のこんな経緯で革と革製品において今では押しも押されもしない世界の中心地にまでなってしまったのである。

 もともとこのフィレンツェから斜塔のあるピサまでのアルノ川下流域は、地中海気候独特の年間を通じて比較的温かな地域である。そのため栗やかばなどの木の生育に適した地域であり、これらの木の根、枝、樹皮から採れる 〈皮を革にする〉ナメシ剤、いわゆる“タンニン”が多く採れていたのである。そういったいくつかの理由で、今でもフィレンツェを中心にしてトスカーナ周辺には、バッグ、靴などの革を扱う工房が多いのもうなずける話である。

 長年の伝統を積み重ねてできあがった革製品は、技術的にも完成度が高い。それは箪笥、サイドボードのような大きな物から、花瓶、縁、葉巻ケース等小さな物まで革工芸品として現在でも日常の品として堂々とそして当たり前のごとく一般に使われている。ほんとに素晴らしい事だと思う。

 イタリアで作られたという革製品をどこかで見かけることがあった時、たとえそれがあのサンタ・クローチェ教会のボッテーガで作られた物ではなくても、フィレンツェにはそんな“革の学校”があったこと、またその作品の革職人は、もしかして昔のあの時の戦災孤児だったかも知れないということを、ちょっとだけ思い出してはいただけないでしょうか。

現在の“革の学校”と革の加工

 あの在りし日の“革の学校”の姿も時代とともにだんだんと移り変わり、1960年代になると生徒であった戦争孤児がだんだん減ってきた。代わりに、アメリカが第3世界の自立を助けるために出していた奨学金を利用して、アフリカからも沢山の生徒がやって来るようになった。

 そして80年代になるとイタリアでは手工業に携わる職人の世界が大きく変わってしまうような法律ができてしまう、ということは工房で昔からずっと続いてきた徒弟制度、つまり若者をほとんど無給に近い形で働かせ、その代わり仕事を覚えさせる、という事が以後できなくなったのである。この新法律ではたとえそれが仕事に対して未経験者であっても、一人前の労働者に払う給料の75%を支払わなくてはならなくなった。そのため以前のように弟子を採用する工房が急激に減っていった。又一方ではこの時代になると国内の産業や経済の急激な発展のため日本と同じように若者の人材が足りなくなり職人離れが目立ってきた。

 この頃“革の学校”も場所は変わらなかったが、経営は教会から離れ、徒弟養成工房から、授業料を取って革工芸の全般を教える私立の“革細工技術者養成学校”に名称と形態が変わった。今では集まる生徒の内容もすっかり変わり、イタリアの地元の人達はごく一部となり、世界中から生徒が集まってくるようになった。

 実は私の知人もそこの学校ではないが通っていたことがあり、以前はミラノの大手の会社でバッグ職人として働いていたが、現在では独立して自分の工房を持ち、色々なバックメーカーのサンプル作りや商品製作をしているようだ。私にとってなかなか羨ましい限りの人生である。授業の午前中は4時間の実習、午後は見習いコースで、受講してもしなくても構わない、自分のそれはやる気しだいの話。期間は最低半年で、半年ずつの2年が標準コースになっているようである。

 

「サンタ・クローチェ教会・1」