フィレンツェ人物伝


ボッティチェッリ

 サンドロ・ボッティチェッリ、本名アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピは1445年か1446年にフィレンツェのボルゴ・オニサンティ地区で皮なめし職人の子として生まれた。オニサンティ修道院と聖堂を中心とするこの地区は羊毛加工業の中心地で、親メディチ派のヴェスプッチ一族が住んでいた。(新大陸アメリカの名前の由来となる大航海家アメリゴ・ヴェスプッチの一族。)ヴェスプッチ家はやがてメディチ家と並んでボッティチェッリのパトロンとなる。

 当時のフィレンツェでは読み書きそろばんの能力は、この商業都市の競争社会を生き抜くための必須条件だったため、職人階層の識字率や教養の高さは有名である。職人街で職人の子として生まれたボッティチェッリも、教育熱心な父の方針で徒弟見習いに出る前に読み書きそろばんを習っている。この勉強は、後にロレンツォ豪華王のサークルに加わるほどの知識人となる彼の人間形成に大きな意味を持っている。

 ウッチェッロやポライウォーロ、ギルランダイオなどと同様、ボッティチェッリもはじめは15歳年上の金細工師の兄アントニオの工房、または父の友人の金細工師の工房に見習いとして入る。やがて金細工師から画家へと転向し、15歳のころにフィリッポ・リッピの工房に弟子入りする。その才能からリッピにかわいがられ、すぐにリッピの制作にも参加するようになる。1465年ごろに制作されたボッティチェッリの最初期の聖母子像(捨て子養育院美術館)には、顎先のとがった聖母の顔や丸々と太った幼児イエスに師リッピの影響が濃厚に表れている。
 その後、20歳ぐらいの時にスポレートに旅立ったリッピの紹介でヴェロッキオの工房に移る。この当時の作品「薔薇園の聖母」や「剛毅」などには丸顔の聖母、短めの鼻、玉座の装飾に見られる工芸趣味などからヴェロッキオの作風が見て取れる。
 このように有名な二人の師の影響を受けつつも、内省的でメランコリックな表情と視線や、繊細な手の仕草、そして堂々たる古典的な量感表現などの特徴から、若いボッティチェッリ自身の技量と才能が発揮されていることがわかる。

 1472年、師の息子フィリッピーノ・リッピらを弟子に迎え、工房を開いて独立する。そして優雅で洗練された独自の画風を磨き、メディチ家、ヴェスプッチ家をはじめ、フィレンツェの上層階級をパトロンとして華々しい画歴を歩むことになる。
 「東方三博士の礼拝」に描きこまれたメディチ家の一族、ロレンツォ豪華王の弟で後にパッツィ家の陰謀で凶刃に倒れるジュリアーノの肖像画、そのジュリアーノの参加した馬上騎馬試合の「女王」に選ばれていた「美しきシモネッタ」の肖像画などは、メディチ家との親密な関係を示している。個人的にもロレンツォ、ジュリアーノ兄弟とは友人づきあいをしており、その知識人サークルにも出入りしていた。
 またヴェスプッチ家の依頼でオニサンティ聖堂に「書斎の聖アウグスティヌス」を描いた。ボッティチェッリといえば甘美でメランコリックな女性像を真っ先に思い浮かべるが、この作品では完全な人体の比例や男性的表現など、15世紀前半の絵画の特徴が表れている。

 しかし、なんといってもボッティチェッリの芸術家としての絶頂期は、異教的神話画の名作「春」「ヴィーナス誕生」「パラスとケンタウロス」などを生み出した1480年代の前半であろう。
 主題としても全く前例がなく、古代以来初めてのほぼ等身大の神話画である「春」は寓意的・象徴的主題に満ち満ちており、15世紀で最も解釈が難解な作品となっているが、どうやらロレンツォ豪華王の又従兄弟のロレンツィーノの婚礼の記念として描かれたものらしい。古代の詩を下敷きにしたポリツィアーノの牧歌的恋愛詩を文学的な典拠としていると考えられ、ここにもヒューマニズムというこの時代の気分が濃厚に感じられるのである。

 ボッティチェッリ自身はヴァザーリによれば「非常に愉快な人物」で、友人や弟子達に悪ふざけを仕掛けたりする、ユーモア精神に満ちた人物だったようだ。またダンテを愛読し、「神曲」の挿し絵を描いた。気ままな浪費家で女性嫌いな享楽主義者、そして彼の作品に見られるように繊細な気質と都会的な洗練された趣味の持ち主だった。

 その後もボッティチェッリは多くの美少年天使に囲まれた聖母子像「マニフィカトの聖母」や「ザクロの聖母」など甘美な作品を描くが、聖母もイエスも放心とメランコリーと孤独感を深め、漠然とした不安感やペシミズムが次第に鮮明になってくる。
 折しも1490年にフェッラーラ出身のドメニコ会修道士ジローラモ・サヴォナローラがサン・マルコ修道院の院長として就任し、フィレンツェの風俗やメディチ家の政治を激烈に糾弾する説教を始めて急速にその影響力を広めていた。
 そして1492年にはロレンツォ豪華王が死去。1494年にはフランス王シャルル8世がイタリアに侵攻する。これには世界の終末が近い、と叫んでいたサヴォナローラの預言が当たったと人々は大騒ぎし、サヴォナローラの指導の元、フィレンツェ市は「神政」を敷く。風紀を引き締め、神をこの世の長として生活するのである。
 そのサヴォナローラの方針でもっとも象徴的なのは「虚飾の焼却」といわれる出来事であろう。シニョリーア広場で多くの異教的・世俗的な絵画や書物、楽器や遊興具、装身具や香水などの奢侈品を積み上げ、燃やしたのである。このことは20年に及ぶロレンツォ豪華王時代の文化に決定的な終止符が打たれたことを意味している。
 先に述べたような「非常に愉快な人物」であったボッティチェッリだが、何か心に傷つくことでもあったのか、サヴォナローラに心酔していく。「虚飾の焼却」では自らの作品を異教的であるとして自らの手で炎に投げ込んだとも言われている。

 1490年代以降、彼の作品からは甘美な異教的な神話画や聖母子像は姿を消し、キリストの受難や救済のテーマが登場するようになり、人物のポーズも硬直し、緊張感にあふれたものになる。古代の画家アペレスの消失した作品「誹謗」をアルベルティの「絵画論」に基づいて復元した寓意画「誹謗」がこの時期の代表作である。
 この作品の制作動機は、サヴォナローラに対する政治的誹謗への抗議、サヴォナローラ党と目された自分自身への誹謗への抗議、同性愛者として2度も告発されたことへの抗議などといわれているが、ロレンツォ豪華王という友人にして最大のパトロンを失った後のボッティチェッリの精神的、社会的孤立が連想される。

 1498年にサヴォナローラが失脚し処刑された後、彼はますます制作意欲をなくし、1501年の「神秘の降誕」を最後にほとんど筆を絶ってしまう。若い頃からの浪費癖もあいまって生活に困窮し、誰からも忘れ去られて1510年に淋しくこの世を去ったという。遺骸はその一生のほとんどを過ごした生家の近く、自らの作品「書斎の聖アウグスティヌス」のあるオニサンティ聖堂に葬られている。

 全てのものが新しく生まれ変わる「春」、ヴィーナスの「誕生」。これはまさにフィレンツェ芸術の黄金時代を象徴している。人生を謳歌する若々しさと洗練された美の集大成であろう。
 しかし「誹謗」に描かれた人物の悲痛な表情や不自然なまでにねじくれたポーズは、これが同じ画家の作品なのかと目を疑わざるをえない。同時に15世紀のフィレンツェの芸術、そしてフィレンツェそのものの歴史の挫折を思い、もの悲しささえ感じられてしまい、長く正視していられないほどである。
 まさにボッティチェッリは、15世紀のフィレンツェ芸術の盛衰を体現していると言えよう。

 

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